帰国して最初に食指を動かしたのがナディフでの " 写真分離派宣言 " のディスクールだった。鷹野隆大、松江泰治、鈴木理策、3名の作家と知人である2名の評論家の名前を連ねていたからである。私が参加したのは鷹野と松江のディスクール。ご存知のとおり彼等は才能に恵まれた人達だが、今回の対話ではそのコンテクストの組み立て方の浅さや粗雑さが気になった。有能な2名のクリティカがバックアップしているのにどうした事か?いま世界はもっと対立と連立を目指して大きく羽ばたく映像を希求していると思うのだが・・・。展示作品は、鷹野は伝統的イデーから転換された裸像を、松江はかつて生産され続けた純粋結晶体に少々リップサービスを加えたカラー作品だった。決して悪くはないのだが大いに物足りなかった。
一昨日は、参加作家の1人から招待されて昭和会(油彩画)の最終日を見に行った。殆どの展示作品は、繊細なタッチと工夫した色彩感で構成された、所謂写実派であった。上手だとは思うのだが会場となっている銀座の老舗画廊の地下で旧友の店員からこっそり見せてもらった日本の古典作品(例えば、満谷国四郎)の力強さ、生への限りなき肯定、そして情熱的な作品に比べると寂しい感がした。
昨日は、芸大の卒展を見に行く。平面作品(油彩、日本画)をじっくり観る。端正な技法と繊細で巧みな筆づかい、自由でストレートなパーソナリティーの展開等については敬意を払うが、彼等の中には少しも「時代の危機感」が見て取れない。
危機感こそ芸術の生命なりと思うのは僕だけだろうか?






