4/08/2010

「マネとモダン・パリ」三菱一号館美術館


 4月6日にオープンした三菱美術館(丸の内)でマネ展を観る。
 刺激的だ。

 1830年の7月革命と同期に誕生したマネの人生は半世紀間ではあるが、ドラマチックなもので、凡庸な印象派の画家とは異なっていたこともよく解った。

 彼の常用する‘黒’が、スペインの画家ベラスケスに対するオマージュであった事も面白い。氏の戦場も印象派展でなく、サロンである。相当自信があったに違いない!

 氏の生きた時代、オスマン計画も示す様に古いParisの都がドラステックに近代化(モデルニテ)された時代だ。強固な主語(マネ)と目的語(作品)、形容詞や副詞は限りなくブリリアントであり、霊感にさえ満ちている。

 私達のいまいるポストポストモダンとは全てが反対だ。
                 
"エドアール・マネ"(部分)
アルフォンス・ルグロ 作

4/06/2010

芸術に於けるコンセプトそしてグローバリゼーション

 私はJR中央線で国立駅から東京駅までが通勤経路だ。いつも1号車の先端の所に陣取って疾走する電車のフロントから左右にとび去る風景を見るのが愉しい。

 今日(4月7日)も、いつもの様に次々と通過する駅をフロントウィンドーからながめていた時、〝これこそコンセプトアートだ〟と直感した。左右周辺の雑多な風景を意識しながらも、集中するのは眼前に現れるレールだけ。個々の物事や出来事間の違いを省き、目に飛び込んで来るレールと信号に神経を集中させる。河原温の Date Painting や Gerhard Richter のPhoto Painting〝階段を下りる裸婦〟が脳裏に浮んだ。

 同時に私が思ったのは、こんな概念芸術 Concept Art が生まれるのは、一神教(Christ)の文化の産物ではなかろうか、という事だった。1点から自分の位置が遠近法に測れるのだ。日本の様な神々が大勢いる国ではこれは成立しない。


 もうひとつの問題は、芸術のグローバル化という問題である。私的な事で恐縮だが、私は中国で、約13年間作品の収集と企画に関係している。元来アートというもの自体、国境や国籍を超越して成立していると思っているが最近これとは反対に、Locality を強調する企画展が目立つようになった。話は飛躍するが、フランスの代表的写真家 H. Cartier=Bresson の作品でもフランス(又はヨーロッパ)でシャッターを切ったものは実に見事だというものが多いが、氏が中東や日本で撮ったものは、前者の作品と比較すると輝きが弱い。風土と作家の関係、それは自分のような凡人ではとても言葉でつづれないがそこには何か在る。モダニズムという芸術史を持たなかった中国(政治的動乱)や韓国(日本の植民地支配)では、その開放や戦後に芸術表現の自由が一気に誕生すると、若手作家は欧米の作風を形だけ借りて身につけようとするか、又は、反対にその土着性を強調するかに分かれていく。


 しかしこんな混沌と混乱が彼等の作品を面白くしているから、芸術は皮肉だ。オリーブの下に芸術はないという事か。最近、日本ではコンテンポラリー・アートフェア2会場に足を運んだけれど、私が感じた事は、日本の若手アーティスト達は、中国や印度の作家に比べて、決定的にエネルギーが不足しているという事だった。若い人達の作品があれ程まで内向的というのも気になった。