4/11/2013
新・ブラームスはお好き?
2/04/2011
久し振りのブログ
帰国して最初に食指を動かしたのがナディフでの " 写真分離派宣言 " のディスクールだった。鷹野隆大、松江泰治、鈴木理策、3名の作家と知人である2名の評論家の名前を連ねていたからである。私が参加したのは鷹野と松江のディスクール。ご存知のとおり彼等は才能に恵まれた人達だが、今回の対話ではそのコンテクストの組み立て方の浅さや粗雑さが気になった。有能な2名のクリティカがバックアップしているのにどうした事か?いま世界はもっと対立と連立を目指して大きく羽ばたく映像を希求していると思うのだが・・・。展示作品は、鷹野は伝統的イデーから転換された裸像を、松江はかつて生産され続けた純粋結晶体に少々リップサービスを加えたカラー作品だった。決して悪くはないのだが大いに物足りなかった。
一昨日は、参加作家の1人から招待されて昭和会(油彩画)の最終日を見に行った。殆どの展示作品は、繊細なタッチと工夫した色彩感で構成された、所謂写実派であった。上手だとは思うのだが会場となっている銀座の老舗画廊の地下で旧友の店員からこっそり見せてもらった日本の古典作品(例えば、満谷国四郎)の力強さ、生への限りなき肯定、そして情熱的な作品に比べると寂しい感がした。
昨日は、芸大の卒展を見に行く。平面作品(油彩、日本画)をじっくり観る。端正な技法と繊細で巧みな筆づかい、自由でストレートなパーソナリティーの展開等については敬意を払うが、彼等の中には少しも「時代の危機感」が見て取れない。
危機感こそ芸術の生命なりと思うのは僕だけだろうか?
8/13/2010
何故、1930 SP原盤か(原盤宝庫)

4/08/2010
「マネとモダン・パリ」三菱一号館美術館

4/06/2010
芸術に於けるコンセプトそしてグローバリゼーション
私はJR中央線で国立駅から東京駅までが通勤経路だ。いつも1号車の先端の所に陣取って疾走する電車のフロントから左右にとび去る風景を見るのが愉しい。
今日(4月7日)も、いつもの様に次々と通過する駅をフロントウィンドーからながめていた時、〝これこそコンセプトアートだ〟と直感した。左右周辺の雑多な風景を意識しながらも、集中するのは眼前に現れるレールだけ。個々の物事や出来事間の違いを省き、目に飛び込んで来るレールと信号に神経を集中させる。河原温の Date Painting や Gerhard Richter のPhoto Painting〝階段を下りる裸婦〟が脳裏に浮んだ。
同時に私が思ったのは、こんな概念芸術 Concept Art が生まれるのは、一神教(Christ)の文化の産物ではなかろうか、という事だった。1点から自分の位置が遠近法に測れるのだ。日本の様な神々が大勢いる国ではこれは成立しない。
もうひとつの問題は、芸術のグローバル化という問題である。私的な事で恐縮だが、私は中国で、約13年間作品の収集と企画に関係している。元来アートというもの自体、国境や国籍を超越して成立していると思っているが最近これとは反対に、Locality を強調する企画展が目立つようになった。話は飛躍するが、フランスの代表的写真家 H. Cartier=Bresson の作品でもフランス(又はヨーロッパ)でシャッターを切ったものは実に見事だというものが多いが、氏が中東や日本で撮ったものは、前者の作品と比較すると輝きが弱い。風土と作家の関係、それは自分のような凡人ではとても言葉でつづれないがそこには何か在る。モダニズムという芸術史を持たなかった中国(政治的動乱)や韓国(日本の植民地支配)では、その開放や戦後に芸術表現の自由が一気に誕生すると、若手作家は欧米の作風を形だけ借りて身につけようとするか、又は、反対にその土着性を強調するかに分かれていく。
しかしこんな混沌と混乱が彼等の作品を面白くしているから、芸術は皮肉だ。オリーブの下に芸術はないという事か。最近、日本ではコンテンポラリー・アートフェア2会場に足を運んだけれど、私が感じた事は、日本の若手アーティスト達は、中国や印度の作家に比べて、決定的にエネルギーが不足しているという事だった。若い人達の作品があれ程まで内向的というのも気になった。
3/24/2010
古い洋楽レコード(SP盤1930年前後)のドイツ文化会館でのコンサートについて。
